2012年04月19日(木)
クリエイターズシンポジウム@浜松は4月21日開催! [【広告】]
クリエイターズシンポジウム@浜松の開催情報とお申込みはこちら!
http://atnd.org/events/26479
Posted at 19時42分 パーマリンク トラックバック ( 0 ) コメント ( 0 )
2012年04月17日(火)
なっ? やっぱり,振り付けのあの部分,不評だろ? [アイドル論]
なっ? やっぱり,振り付けのあの部分,不評だろ? 投稿者 azukitoast
「南流石さんのせいじゃないよ。本当はとってもキュートな振り付けなんだけど、乃木坂46のコンセプトには合わない。制作チームが乃木坂46のコンセプトを理解していないからだと思う」と秋元康は醜くも責任を転嫁する(自分も一度はゴーサイン出したんじゃないの?)。
けど,乃木坂46のコンセプトっていったい何なんだ? 秋元康が提示しているのは,「劇場をもたずに全国を対象にし,“ファンの声をより反映させたグループ”で,AKB48のライバル」ってことだけじゃない? メディア露出を軸として,AKB48に正面切って対抗していくのには,少々の“飛び道具”も必要になるのにね。
乃木坂46のデビューシングルとその振付から,私は勝手に「男子禁制の女子校育ち」が乃木坂46のコンセプトだと思っていた。「女子校的開放的なエロス」がコンセプトだと。男性の眼を意識しないと,女子校生はどこまでも奔放になれる(ものらしい)。AKB48たちはやはり「男性の眼を過剰に意識した少女たち」だからだ。女子校では同性間でスカートはめくる/まくるものだろう? いや仄聞するだけで,実際は見たことがないけど。
「なっ? やっぱり,振り付けのあの部分,不評だろ?」の続きを読む
Posted at 20時28分 パーマリンク トラックバック ( 0 ) コメント ( 0 )
2012年03月17日(土)
『カーネーション』23・24週と『火の魚』―「70すぎても防御だけやったらあかんで!!」 [テレビドラマ]
糸子の独白(なんでやろ。この家で,いろんなもんを産んで増やして育ててきたつもりやったのに,結局ひとりになってしもた。どっかでなんか間違えたんやろか。それとも,そもそも人間がそうゆうもんなんやろか)
寝床の中で弱気になった糸子の目に,北村の写真が映る。
糸子の独白(…ここで泣いたら,あいつの思うツボじょ…)
糸子は目を閉じ,涙をグッとこらえる。
「うちは泣かへん……泣かへんで」
この独白に呼応するのは,北村の第127話のセリフだ。
北村「お互い,こっちから先は失くすばっかりやぞ。お前の言うとる宝かて,どうせ一個ずつ消えていく。人かて,みんな死んでいくんじゃ。お前,ここにいちゃったら,一人でそれに耐えんとあかんねんど?」
糸子「…は? ヘタレが。そもそもやな,失くす失くすて何を失くすねん? うちは失くさへん! 相手が死んだぐらいでなんも失くさへん! 決めたもん勝ちや。ヘタレはヘタレて泣いとれ。うちは宝抱えて生きていくよって」
『カーネーション』は23週(128話)から,小原三姉妹以外の登場人物を総取っ替えする“暴挙”に出た。12年の歳月の経過の中で,主人公を演じる役者が変わり,取り巻く町の人々もすっかり入れ替わった。それまでの登場人物の多くは「写真立ての中」に存在するにすぎない。住居では完全に「独居高齢者」である。「一人でそれに耐えんとあかん」状況であり,足首の骨折が“老境”に拍車をかける。およそテレビドラマで,こうした状況におかれる主人公は珍しい。
そもそも23週時点で,小原糸子は「平和」で「ゆったりとした生活」を過ごしている。余生に近い。1985年に岸和田で婦人服をオーダーメイドで誂えるのは,そもそも中高年の富裕層に限られ,本人も認める「斜陽産業」なのだ。本人は「やる気」も「意地」もかけた仕事だと思っているだろうが,パターナリズムに陥っていたことは想像にかたくない。
そんな状況に「異化作用」を及ぼす存在として現れたのが,アホボンズであり,優子の次女・里香(孫)である。とくに里香は,ジャージという鎧を纏った「不良少女」として登場し,糸子は久々に「一人」ではない生活,おそらく初めて「母親代わり」として無償の愛と全人格的関係を結ぶ対象との生活を経験する。里香はいろんなことを学んでいく(里香にとっても祖母・糸子は「父親のような人」だったかもしれないが)。その過程でまた糸子も活性化されていく。「教導する」という行為は,つねに双方向のものであり,教える側の人間もまた学んでいくのだ。アホボンズが(おそらく北村が果たせなかった)プレタの道へ糸子を誘い,糸子が里香をデザイナー(三代目)への道を付けたのだ。
この物語構図は,渡辺あやのドラマ『火の魚』を想起させる。頑固で偏屈で世を拗ねた老小説家(原田芳雄)は生きる意欲も喪失がち。癌を患う若い編集者(尾野真千子)が担当を志願してくる。その関係性のなかで,編集者以上に老小説家が賦活されていく。2万円分の真紅の薔薇の花束を抱えて病院に見舞いに行くぐらいに。「気持ちで老けこんだらあかん!」が『火の魚』でもテーマの一つだった。
60代の糸子の生活を想像するに「喪失と弔いの日々」の連続で,新しいことに挑戦する意欲は喪失していたように見える。店の従業員もイエスマンばかりだ。「気持ちで老け込んでいた」部分が多い。頑迷に保守的で「オーダーメイド職人としての意地」を訴えても,「そんなんチャッチャッと棄てましょ」とアホボンズに言われる始末だ。
里香という守り/守られる対象がいること,声をかけたアホボンズに恥をかかせられないこと,そして「引退し!」「72で無理や!」と反対する娘たちへの反発心。それらが糸子をプレタポルテという“だんじり”に向けて疾走させる。
渡辺あやは北村的生き方(新天地に行く)・糸子的生き方(自分が得た宝物を崩さない)という対立軸を提示する。そして,視聴者を糸子的生き方(失うものばかり)に否応なく引きずり込んでいく。なので,反発も大きかった。だが,アホボンズと里香という媒介項により,「攻撃しつつ防御する」(新たなステージに上りつつ岸和田に住み続ける)という二つの方向を止揚した生き方を獲得するのだ。
「70すぎても防御に入ったらあかんで! 一歩踏み出したら,おもろいし,新しい“宝物”も手にはいるで!!」が,渡辺あやが描きたかった「老いへのメッセージ」だろう。「攻撃こそ最大の防御」なのだ!
この2週間は里香が“準主役”であり,あらゆるシーンで表情のショットを抜かれまくっていた。台詞の数は多くない。しかし,繊細な表情で感情の揺れや動きを表現しなければならない。小島藤子はさすが昼ドラ主役経験者である。「グレてんけ?」という状態から「ザッツお嬢様!」までみごとに演じきったと思う。
連続テレビ小説の中に連続テレビ小説の話題が出てくるのが珍しい。闘病生活で初めて糸子が連続テレビ小説を見る習慣ができたというのだ(『おしん』をみなかったのもすごい)。孫と二人で朝食をとりながら『いちばん太鼓』をみて,「えーっ,ここで終わりかいな」「どうなるんやろな」と言い合っている。それはそのまま「こっち側」の光景だ。繊維問屋の三女が戦後のファッション界で成功する『都の風』(87年,加納みゆき)の糸子の感想を聞きたかったなー。
この自己言及的設定は,さらに大きな仕掛けへの伏線だろう――と,多くの伏線をはりつつ回収してきた渡辺あやだけに期待する。「孝枝さんは,実は神宮司さんのひ孫さん」という設定はないんやろか?
Posted at 14時06分 パーマリンク トラックバック ( 0 ) コメント ( 0 )
2012年03月16日(金)
歩行者に対してクラクション(警笛)を鳴らすこと自体が道路交通法違反なのだが… [道路交通法]
第五十四条 車両等(自転車以外の軽車両を除く。以下この条において同じ。)の運転者は、次の各号に掲げる場合においては、警音器を鳴らさなければならない。
一 左右の見とおしのきかない交差点、見とおしのきかない道路のまがりかど又は見とおしのきかない上り坂の頂上で道路標識等により指定された場所を通行しようとするとき。
二 山地部の道路その他曲折が多い道路について道路標識等により指定された区間における左右の見とおしのきかない交差点、見とおしのきかない道路のまがりかど又は見とおしのきかない上り坂の頂上を通行しようとするとき。
2 車両等の運転者は、法令の規定により警音器を鳴らさなければならないこととされている場合を除き、警音器を鳴らしてはならない。ただし、危険を防止するためやむを得ないときは、この限りでない。
道路交通法の大原則として,「クラクションを鳴らしてはいけない」のである。前方の歩行者や自転車が邪魔だったとしても「危険を防止するためやむを得ないとき」には該当しない。徐行するか停止して,口頭などで注意喚起すれば済むからだ。車両と歩行者の関係で,車両は絶対的強者だ。弱者を蹴散らすようなクラクション(警笛)はもってのほかだ。運転者の経験年数が上がるほど,この大原則が形骸化していく。また,自転車が歩道を走行する場合なども,自転車運転者が無闇に警笛を鳴らす場合がある。
したがって,自動車(または自転車)に警笛を鳴らされた場合,こんな含意があると受け止める人がいても仕方がなかろう。「オラオラ! どきあがれ! 愚か者の歩行者め! ウジ虫どもめ!」 たとえ運転者は「そんな気持ちはなかった」と言い繕ったとしても,品と礼を欠いた“過剰な威嚇行為”であることは間違いないのだ。
ただし,そこで歩行者がとるのが「殺すぞ!」という脅迫だったり,自動車に損壊を与えるような行為をとったりしたのでは,大阪地裁判決のように「正当防衛」が認定される。そして,この判決が出たからといって「歩行者に向けて警笛を鳴らすこと」が正当化されたわけではない。
Posted at 23時39分 パーマリンク トラックバック ( 0 ) コメント ( 0 )
2012年03月15日(木)
青少年健全育成審議会委員は「記名」「顕名」の仕事である! [表現規制]
本ホームページに掲載(平成23年12月23日付け)した、平成23年度第2回青少年健全育成審議会議事概要に関し、委員から、様々な誤解を生じているため、発言の一部を取り消したいとの申し出があり、同審議会で了承されましたので、改めて、議事概要を掲載いたしました。
平成23年度第2回宮崎県青少年健全育成審議会の概要
「性的感情を刺激する内容がほとんどで、その中で女性が男性をリードする描写が多く、それをもし青少年が読んだりすると女性はそういうものを望んでいるんだといった偏った価値観を植え付けるのではないか」
「昔、同性愛というのは、特殊な環境の中でそうなるときいたことがあったのですが、一般にはこういうのがあるのかなと思いますね」
これが「様々な誤解を生じている」議事概要に記載された発言だ。青少年健全育成も「人権を擁護する」「マイノリティを差別しない」「性的嗜好に善悪判断を持ち込まない」が大前提である。そして,可能な限り「科学的思考」に立脚する必要がある。世間を構成する生活者としての自分の好き嫌いや偏見だけで「有害図書」の判定をしてはいけないのである。
百歩譲って,委員がそうした発言をしたしても,ネットで批判されたらかといって「発言を削除」するのは言語道断だ。国会の質疑でもそうなのだが,「議事録からの削除」が常態化すると,「確信犯的な問題発言」をする人は必ず出てくるのだ。発言削除したとしても,毀損された信用は回復しないし,問題状況は何も変わらない。
理想論を言えば,青少年健全育成審議会も「記名」「顕名」の仕事と心得,議事録に記載された各発言にも「A委員」などの「仮名」できなく「実名」を明記してほしいものだ。文書には出席者の「実名」が記載してあるわけだから。
青少年健全育成審議会が担う「有害図書指定」は表現者・出版社の生殺与奪を握った行為である。それだけに,指定に際しては「説明責任」が求められる。委員には「有害とは何か」「健全/不健全とは何か」「青少年とはどういう存在か」などでそれなりの見識を求められるはずだ。「なんとなく有害っぽい」という理由は最悪だ(それは『奥サマは小学生』を指弾する猪瀬直樹にも指摘できることだが)。
「青少年健全育成審議会委員は「記名」「顕名」の仕事である!」の続きを読む
Posted at 12時56分 パーマリンク トラックバック ( 0 ) コメント ( 0 )
2012年03月02日(金)
『カーネーション』126話にみる70年代における分界点 [テレビドラマ]
糸子「あんたらな,東京,東京って,なんでそない東京に行きたいねん?」
優子「そらやっぱり経済でも文化でも東京が中心やん? うちらアパレルが本気で売上伸ばしていこう思たら,まずは東京が拠点やないと話にならへんやんて」
糸子「正直,ようわからへんにゃ。東京に出るんと,岸和田残るんと。自分はどないしたいんか。どっちのほうがおもろい思てんか。その肝心なとこが自分でもようわからへんねん」
昌子「そら東京のほうがおもろいんちゃいまっか? みんな東京に行きたがるんは,よっぽど東京がおもろいからでしょ?」
糸子「うーん,あらな,なんちゅうか,新しいゲームが始まってしもてんや。戦争と同じぐらい大層な,ようさんでやるゲームが。それがな,えらいおもろいらしい」
昌子「やっぱりオモロいんやないですか!」
糸子「しんどいやろ,ゲームて。敵ばっかしおって。頭ばっかしのぼせて。うちはな,洋服こさえられたらそれでよかったんや。それがいつの間にか,洋服もゲームになってしもうた。(略) いまはモードの力がごっつう強いやろ。去年最高やった服が今年はもうあかん。どんなにええ生地で丁寧にこさえたって,モードが台風みたいにぜーんぶなぎ倒していってしまいよんねん。人に希望を与えて,簡単にそれを奪う。そんなことずーっと繰り返してきた気がすんにゃ」
『カーネーション』には脚本家・渡辺あやの“思想”が色濃く投影されている。脚本家という職業で輝くには,人生の一時期は東京で〈流行(モード)〉を追わなければならないと一般には思われている。渡辺あやは神戸→ドイツ→島根と居を移しつつ,結婚・出産を経て,島根に根を張って脚本を書いている。確かに,民放の連ドラのような〈流行〉の作品は不向きだろう。しかし,人に希望を与えるような〈不易〉の作品(映画やNHKドラマ)は島根に住み続けるからこそ書ける部分もある。夏木マリへのバトンタッチを前にした,尾野“糸子”真千子の最後の葛藤(東京へ行くか岸和田に残るか)は,渡辺あやも一度は直面した問題だろう。
昭和期までを舞台とした朝の連続テレビ小説の多くは,ヒロインの故郷(地方)と東京・大阪など都会との対立軸で物語は進む。進学・就職などの局面で志を抱いた〈上京〉が描かれる。『カーネーション』の場合は,優子・直子を典型的な〈上京物語〉として描いたぐらいだ。結果的に,東京に住み続けるでも,何らかの形で故郷に帰るでも結末はどうでもいいが,“花の都”“美し都”として東京に憧れ,東京に行けば夢が叶う(北村か!)という〈TOKYO DREAM/東京中心主義〉が物語のどこかに顔を覗かせるのだ。
『カーネーション』126話で糸子が悩んでいたのは昭和48(1973)年のこと。〈東京中心主義〉や経済成長至上主義ではない価値意識が生まれたころだ。「スモール・イズ・ビューティフル」の人間復興の経済があり,ソフト・エネルギー・パスがあり,緑の党に象徴されるエコロジー運動があり。73年11月にはオイルショックが起こる。〈東京中心主義〉の見直しは,それによって加速されたのであって,それだけが契機ではない。
77年からは第三次全国総合開発計画(三全総)が始まり,定住圏構想が生まれる。79年には平松守彦が大分県知事に当選し,一村一品運動を始める。〈地方分権の時代〉が叫ばれた。が,バブルという津波はそのうねりを押し流した。バブルが崩壊し,地方はその後遺症にまだまだ苦しめられている。「東京に出るんと○○に残るんと」どちらがいいのかという糸子の迷いは,多くの日本人の迷いでもあるのだ。
![]() | カーネーション 完全版 DVD-BOX1【DVD】 TOEI COMPANY,LTD.(TOE)(D) 2012-03-21 売り上げランキング : 199 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
マイ・ペースが『東京』を歌ったのは1974年のことだ。夢と希望を持って東京に住む君との“遠距離恋愛”の歌である。
Posted at 23時02分 パーマリンク トラックバック ( 0 ) コメント ( 0 )
2012年02月23日(木)
私立大学の「学問の自由」と国旗国歌 [新聞論説]
(同志社では)日の丸・君が代は公式の場では使いませんし,年号も西暦だけを用いています。
大谷實・同志社総長 「サンデー毎日」1月22日号
「官の精神」ではなく「在野精神」を培うことを建学の精神とする私立学校は多い。むろん,同志社の新島襄のように,在野でありながら愛国という立場もある。たとえ私学助成金で経営を支えられるとしても,「官の精神」との距離感を失ったのでは,私立学校としての存在理由を問われる。そんな私立学校を「学校行事での国旗国歌の指導は学習指導要領で定められており,教員が率先して国歌の起立斉唱を行うのは当然だ」と難詰したところで筋違いだ。同志社のように,国旗国歌を使用しないところでは起立もへちまもない(*)。
早稲田大学の入学試験で、学校行事の国歌斉唱における教員の不起立訴訟が取り上げられ、起立命令を暗に批判する問題文が出題されていた。
最高裁判例で起立しない教員への職務命令は合憲とされている。極めて不適切な設問と言うほかない。受験生に与えた不安や戸惑いも小さくはない。大学側は事の重大性をしっかり認識し、出題意図を明確にするなど説明責任を果たさなければならない。こうした設問については採点対象から除外することも検討すべきだ。
「産経新聞」2012年2月23日付「主張」
こうなるとマッドドッグだ。軍国主義下でもキリスト教主義を貫いた同志社は,官や民から十字砲火のような非難を浴びた。大政翼賛体制に組み込まれた新聞からも。早稲田大学は少しは体制に迎合したかもしれないが,社会科学的思考の柔軟さと奥行きを計測できると考えたがゆえの出題だろう。「官の精神」の涵養機関である国公立大学では,出題を躊躇する問題でもある。
国旗国歌を「強制するのが当たり前」と思う考え方に新聞が凝り固まると,言論の多様性は確実に損なわれていくのに。
*― いまの大谷総長は法学者である。そしてカレッジソングと賛美歌が同志社の式典歌である。
Posted at 09時28分 パーマリンク トラックバック ( 0 ) コメント ( 0 )
【 過去の記事へ 】

























